46番街

思ったことを書きます。

遺された営団地下鉄を追う

 営団地下鉄、正式名称は帝都高速度交通営団。東京都内の地下鉄8路線*1を経営していた特殊法人だ。2004年に特殊会社化である東京メトロに継承されたが、東京の地下鉄=営団(と都営)というイメージを持つ人も未だ多いのではないだろうか。

 私も幼少の頃は地下鉄=営団だった。埼玉の人間であったので、営団時代に利用した回数はほんの僅かだったと思う。東京ドームに行くために、池袋から丸ノ内線で後楽園に行ったとか、王子から南北線で後楽園に行ったとか、それぐらいである。

 

 東京メトロになってから19年の月日が経った。当初は至るところに営団時代の名残が見受けられるように記憶しているが、案内サインの更新や駅のリニューアルが進み、次々と姿を消していった。しかし、一部にはまだまだ営団時代の案内サイン等が遺されている。先日それらを撮影したものと、以前撮影したものを記していきたい。

 以下で紹介するのは2023年4月現在で現存するもの全てではないのでご容赦いただきたい。

 

王子駅

JR王子駅の北口前にある周辺地図。「地下鉄」の文字が営団時代のものである。しかし、東京メトロのロゴや文字を後から貼った形跡はない。営団解散後のものなのだろうか。

 

急告板。東京メトロロゴマークの下にある営団ロゴマークが浮かび上がっている。営団ロゴのまま残っている駅もあるようだ。

 

連結送水口も同様に営団ロゴマークが浮かんでいる。新高円寺にある送水口は上書きされることなく営団のままらしいが、時間の都合で未訪問。

 

市ヶ谷駅

都営新宿線との連絡改札口(都営地下鉄の敷地内)の案内サイン。

 

神田川の南側、麹町方面の地下通路。ここは都(≠交通局)の管轄らしい。営団時代からの、ナンバリングの無い路線案内や周辺案内が残る。

 

3番出口にある案内サイン。路線名は後から貼り直されているが、よく見ると南北線の真下にかすかに都営新宿線の文字が見える。南北線四ツ谷駅開業が1996年3月であるので、それ以前から存在することになる。

 

有楽町駅・日比谷駅

新国際ビルヂング入口(D3出口)のサイン。

 

D1出口。「有楽町駅」のフォントが古めかしい。

 

国際ビルヂング内の案内。

 

日比谷駅の3番出口の案内サイン。まさしく営団サインといった具合である。

 

3番出口を降りたところにあるこの標も営団時代のものだろうか。

 

永田町駅

都道府県会館直結の9b出口に営団サインが残る。

路線カラーの輪と路線名というシンプルながらも明快な表現が営団サインの特徴。

 

9b出口を降りた地下にあるサイン。ゴシック4550…で合っているだろうか?フォントに関しては知識不足で自信がない。

 

営団仕様の周辺案内だが半分ほど上書きもしくは消されている。

 

新橋駅

新橋駅前ビル1号館に残る「営団地下鉄銀座線」の文字。

 

新橋駅前ビル2号館地下への入口。これは有名になりつつあるだろう。「営団地下鉄銀座線」どころか「国鉄新橋地下駅」とある。東京都心に「国鉄」「営団」の文字が堂々と残っているのである。

新橋駅前ビル2号館への地下入口には都営浅草線の古い看板(江戸橋→日本橋の上書き痕や羽田の文字がない)もあるが、営団ではないので割愛する。

 

方南町駅

東口の入口、商店街のアーケードの看板に「営団地下鉄」の文字が堂々と残る。駅の方は改装されて綺麗になっているので、ギャップが際立つ。

 

 ここまで紹介したものの共通項は、最初の王子駅以外はすべて東京メトロの敷地外である。営団サインや「営団」の文字が入ったモノは、東京メトロの手が及ばない場所に遺されているのである。

 当記事で掲載したもの以外にも、浅草駅や新宿駅などにも営団時代からのサインが現存する。訪問・撮影でき次第また記事を書きたいと思う。

*1:有楽町新線(現:副都心線)を別路線としてカウントするならば9路線

二郎系に並んで

 中学3年生の頃にラーメン二郎に嵌って早12年、関西に引っ越した今でも二郎インスパイアの店舗や京都のラーメン二郎に時々通う。30代も近づいて食べた分だけ体に贅肉が付くようになったけど、あの暴力的な旨味には抗えない。

 

 ラーメン二郎や亜流、二郎インスパイアといえば行列である。システマティックなオペレーションにも関わらず狭い店舗に多くの人が押し寄せるため、時に長い行列を作ることもある。ピーク時の三田本店や横浜関内店などは圧巻である。

 

 行列に並ぶのもまたその店の要素のひとつだと勝手ながらに思っている。テーマパークや他の飲食店の行列は嫌なのに。列に並んだら、今日のトッピングは何にしようかと頭の中で呪文のようなコールを唱えながら、スマホを覗いたり、同行者がいれば会話をしたりして時間を潰す。かつてあった有名なラーメン二郎のファンサイトには「並びながら小説を読んでいる人は通のよう」みたいな記述があったのを未だに覚えている。

 

 ところで、行列をふと眺めてみると関東圏の店舗と関西圏の店舗で客層の違いがよく分かることに気がついた。前者は20代後半以上が多く、後者は学生~20代中盤ぐらいが多い。もちろん立地や曜日によって変動はあると思うので一概には言えないが、そういう印象を抱く。

 関東圏の店舗、特にラーメン二郎となると昼休みや仕事帰りのサラリーマンが目立ったり、30~40代ぐらいの人も多い。若い人もいるが、割合としては半分ぐらい。一方で関西圏の店舗、直系の京都二郎の他にラーメン荘のグループ・池田屋等々は学生や20代前半ぐらいの人がメインを張っている。

 二郎(系)が展開されていった歴史の違いなんだろうか、と勝手な持論を持っているが、なぜここまで差が出るのだろう。いずれにせよラーメンを食べる上では何ら影響も無いのではあるが。

 

 画像は2012年のラーメン二郎目黒店。店主が当時阪急ブレーブスの帽子を被っていたのが印象的だった。安くて食べやすい量で味も良い。

電車賃とラーメン代を天秤にかけて後者が勝った回

池袋から大宮まで歩いたアホのアカウントがこちらになります

— みや (@yyksm46) 2012年5月6日

最近、「どこからどこまで歩いたことがある」みたいな話題でふと思い出した出来事である。

上記のツイート日時の通り2012年のGW、もう10年以上前。

この日は何らかの用事で池袋に出掛けていた。何の用事だったかは覚えていない。Twitterの過去ログを漁ってもこの日は当時としてはあまりTweetしておらず、手掛かりが掴めない。ただ人と待ち合わせしていたことは分かった。

 

ともかく、その後に池袋でラーメンを食べた。確か西口のらーめん大だったと思う。現在は閉店しているようだ。

当時の自分は二郎系のラーメンにハマりはじめていた。この頃は地元大宮にラーメン二郎があり、そこで二郎系というものに出会った。その後、ラーメン二郎の他の店舗や他の二郎インスパイアの店にも行きたいと、各所に赴くようになる。

しかし、当時は高校生になったばかりで、少ないお小遣いから交通費と食費を捻出している状態だった。そのため、所持金はよくギリギリになりがちだった。

らーめん大で食事をしようと考えて、子供感丸出しな財布のマジックテープをバリバリと鳴らして開けると、財布の中には1000円にも満たないお金しか入っていなかった。

 

当時の池袋から地元までの運賃が450円、ラーメン代は当時おおよそ700円~800円。食事と電車での帰宅の両立は不可能である。大人になった今ならキャッシュカードやらクレジットカードやらモバイルSuicaやら、色々所持しているが、高校1年生だった当時の自分にはそんなものなど手元に無い(そもそもクレカは作れないし)。

食事を諦めて帰宅するのが普通である。帰宅先は実家であるし家族もいるし食料もある。ところが若気の至り以前の発想で、「金がないなら徒歩で帰ってみるか」と帰宅の足よりもラーメンを優先した。

都心から郊外の自宅まで徒歩で帰る事になったという事例は、世の中を見渡せば様々な場面で発生しているし、決して無謀なことではないが、趣味嗜好を優先して自らその選択肢を取るというのは馬鹿以外の何物でもない。

 

かくしてらーめん大で麺をすすり、店を後にして当時居住していたさいたま市まで徒歩で帰宅することになった。退店したのは大体13時台後半だっただろうか。

とりあえず国道17号にたどり着けば、あとは道なりで地元まで行けるので、そこを目指す。ちょうど池袋駅の西側だったので、山手通りを北上した。

(上)都道317号(山手通り)と国道254号(川越街道)との交差点300m手前の青看板。

(下)山手通りと川越街道の交点となる熊野町交差点。手前の駐車場は現存しないらしい。

 

そして板橋区内で国道17号に合流する。中山道の文字を見ると安心するが、まだ埼玉県にすら辿り着いていない。さいたま(浦和)まで14kmと、まだまだである。

(上)さいたままで14kmの青看板。

(下)大和町交差点。都営三田線板橋本町駅のあたりである。

 

国道17号に入ってからは志村のあたりまで都営三田線の上を歩くことになる。板橋区や北区らしい個人商店と雑居ビルと住宅団地が入り混じった光景が続く。

本蓮沼志村坂上の志村警察署前交差点。

 

地下を走るので目にできないが、都営三田線が西に逸れる。そしてすぐに環八通りが出現する。このあたりまで来ると多少建物が低くなってきて、そろそろ東京都が終わるなと感じさせる。

そして遠目に鉄道の高架線が見えてくる。埼京線東北新幹線の高架だ。県境を流れる荒川に掛かる戸田橋が近い。

 

(上)環八との交差点

(下)画像正面奥にちらっと東北新幹線の高架が見える

 

戸田橋を渡りついに埼玉県に入る。ここまでの距離はちょっとした長めの散歩程度だが、早くも達成感が湧いてくる。ここまでで既に3時間近く歩いている。

それにしてもこの日は風が強かった。埼玉東部か茨城のあたりで竜巻が発生したレベルだったと記憶している。川の上ということもありもろに風を受け、吹き飛ばされるんじゃないかと思いながら歩いた。並行する埼京線がやたらと速度を落として運転していたので、風規制で徐行していたのではないだろうか。それぐらいのレベルである。

(上)埼玉県突入。

(下)屋根しか見えないが、今となっては懐かしい埼京線205系。荒川上では速度を落としていた。

 

戸田公園の辺りを過ぎて、国道17号京浜東北線埼京線の中間地点を通るようになる。途中イトーヨーカドー蕨店で休憩を入れた。ここも最近閉店して現在はビバホームになったらしい。諸行無常

中山道と交差して、外環道の辺りでやっとさいたま市に突入。しかしまだ旧浦和市の南区であり、帰ってきた感は薄い。当時でも合併から12年経っていたのに、どこか大宮浦和与野岩槻を線引してしまっていた。23年目の今もそうだけど。

 

(上)中山道蕨宿の石碑

(下)さいたま市。市章が無い。

 

もうすっかり日が傾いてきたが、駅で言えばまだ南浦和武蔵浦和にも辿り着いていない。痛みだした足を庇いながら帰宅を急いだ。武蔵野線を潜り、県庁を横目に浦和の中心部を抜けた頃にはほぼ真っ暗であった。

 

(上)武蔵野線との交点。17号は北与野近辺まで片側1車線しか無いので渋滞する。

(下)北浦和駅。もう真っ暗である。

 

与野市中央区に入り、ヘロヘロになりながら、漸く当時最寄りとしていた北与野駅まで辿り着いた。時間の方はもうすうぐ20時となるところであった。途中休憩を入れたとはいえ、ざっと6時間半歩いていたことになる。

北与野駅

 

そうして足を痛めつつも自宅に無事帰還した。事の顛末を親に話したら呆れられたのは言うまでもない。

自分は「これぐらいならまあいけるだろう」と考えて実行した結果後悔するといった、見積もりの甘さが悪いところなのだが、その最たる例がこの出来事である。電車で帰れば30分のところを、ラーメンが食べたいがために6時間半かけて徒歩で帰宅する思考に至るのは愚の骨頂であるが、まあまあウケのいいエピソードトークに昇華しているので、めでたしめでたし(?)