46番街

思ったことを書きます。

電車賃とラーメン代を天秤にかけて後者が勝った回

池袋から大宮まで歩いたアホのアカウントがこちらになります

— みや (@yyksm46) 2012年5月6日

最近、「どこからどこまで歩いたことがある」みたいな話題でふと思い出した出来事である。

上記のツイート日時の通り2012年のGW、もう10年以上前。

この日は何らかの用事で池袋に出掛けていた。何の用事だったかは覚えていない。Twitterの過去ログを漁ってもこの日は当時としてはあまりTweetしておらず、手掛かりが掴めない。ただ人と待ち合わせしていたことは分かった。

 

ともかく、その後に池袋でラーメンを食べた。確か西口のらーめん大だったと思う。現在は閉店しているようだ。

当時の自分は二郎系のラーメンにハマりはじめていた。この頃は地元大宮にラーメン二郎があり、そこで二郎系というものに出会った。その後、ラーメン二郎の他の店舗や他の二郎インスパイアの店にも行きたいと、各所に赴くようになる。

しかし、当時は高校生になったばかりで、少ないお小遣いから交通費と食費を捻出している状態だった。そのため、所持金はよくギリギリになりがちだった。

らーめん大で食事をしようと考えて、子供感丸出しな財布のマジックテープをバリバリと鳴らして開けると、財布の中には1000円にも満たないお金しか入っていなかった。

 

当時の池袋から地元までの運賃が450円、ラーメン代は当時おおよそ700円~800円。食事と電車での帰宅の両立は不可能である。大人になった今ならキャッシュカードやらクレジットカードやらモバイルSuicaやら、色々所持しているが、高校1年生だった当時の自分にはそんなものなど手元に無い(そもそもクレカは作れないし)。

食事を諦めて帰宅するのが普通である。帰宅先は実家であるし家族もいるし食料もある。ところが若気の至り以前の発想で、「金がないなら徒歩で帰ってみるか」と帰宅の足よりもラーメンを優先した。

都心から郊外の自宅まで徒歩で帰る事になったという事例は、世の中を見渡せば様々な場面で発生しているし、決して無謀なことではないが、趣味嗜好を優先して自らその選択肢を取るというのは馬鹿以外の何物でもない。

 

かくしてらーめん大で麺をすすり、店を後にして当時居住していたさいたま市まで徒歩で帰宅することになった。退店したのは大体13時台後半だっただろうか。

とりあえず国道17号にたどり着けば、あとは道なりで地元まで行けるので、そこを目指す。ちょうど池袋駅の西側だったので、山手通りを北上した。

(上)都道317号(山手通り)と国道254号(川越街道)との交差点300m手前の青看板。

(下)山手通りと川越街道の交点となる熊野町交差点。手前の駐車場は現存しないらしい。

 

そして板橋区内で国道17号に合流する。中山道の文字を見ると安心するが、まだ埼玉県にすら辿り着いていない。さいたま(浦和)まで14kmと、まだまだである。

(上)さいたままで14kmの青看板。

(下)大和町交差点。都営三田線板橋本町駅のあたりである。

 

国道17号に入ってからは志村のあたりまで都営三田線の上を歩くことになる。板橋区や北区らしい個人商店と雑居ビルと住宅団地が入り混じった光景が続く。

本蓮沼志村坂上の志村警察署前交差点。

 

地下を走るので目にできないが、都営三田線が西に逸れる。そしてすぐに環八通りが出現する。このあたりまで来ると多少建物が低くなってきて、そろそろ東京都が終わるなと感じさせる。

そして遠目に鉄道の高架線が見えてくる。埼京線東北新幹線の高架だ。県境を流れる荒川に掛かる戸田橋が近い。

 

(上)環八との交差点

(下)画像正面奥にちらっと東北新幹線の高架が見える

 

戸田橋を渡りついに埼玉県に入る。ここまでの距離はちょっとした長めの散歩程度だが、早くも達成感が湧いてくる。ここまでで既に3時間近く歩いている。

それにしてもこの日は風が強かった。埼玉東部か茨城のあたりで竜巻が発生したレベルだったと記憶している。川の上ということもありもろに風を受け、吹き飛ばされるんじゃないかと思いながら歩いた。並行する埼京線がやたらと速度を落として運転していたので、風規制で徐行していたのではないだろうか。それぐらいのレベルである。

(上)埼玉県突入。

(下)屋根しか見えないが、今となっては懐かしい埼京線205系。荒川上では速度を落としていた。

 

戸田公園の辺りを過ぎて、国道17号京浜東北線埼京線の中間地点を通るようになる。途中イトーヨーカドー蕨店で休憩を入れた。ここも最近閉店して現在はビバホームになったらしい。諸行無常

中山道と交差して、外環道の辺りでやっとさいたま市に突入。しかしまだ旧浦和市の南区であり、帰ってきた感は薄い。当時でも合併から12年経っていたのに、どこか大宮浦和与野岩槻を線引してしまっていた。23年目の今もそうだけど。

 

(上)中山道蕨宿の石碑

(下)さいたま市。市章が無い。

 

もうすっかり日が傾いてきたが、駅で言えばまだ南浦和武蔵浦和にも辿り着いていない。痛みだした足を庇いながら帰宅を急いだ。武蔵野線を潜り、県庁を横目に浦和の中心部を抜けた頃にはほぼ真っ暗であった。

 

(上)武蔵野線との交点。17号は北与野近辺まで片側1車線しか無いので渋滞する。

(下)北浦和駅。もう真っ暗である。

 

与野市中央区に入り、ヘロヘロになりながら、漸く当時最寄りとしていた北与野駅まで辿り着いた。時間の方はもうすうぐ20時となるところであった。途中休憩を入れたとはいえ、ざっと6時間半歩いていたことになる。

北与野駅

 

そうして足を痛めつつも自宅に無事帰還した。事の顛末を親に話したら呆れられたのは言うまでもない。

自分は「これぐらいならまあいけるだろう」と考えて実行した結果後悔するといった、見積もりの甘さが悪いところなのだが、その最たる例がこの出来事である。電車で帰れば30分のところを、ラーメンが食べたいがために6時間半かけて徒歩で帰宅する思考に至るのは愚の骨頂であるが、まあまあウケのいいエピソードトークに昇華しているので、めでたしめでたし(?)